『R不動産』は都市をリサイクルするメディアなのです馬場正尊
インタヴュー採録:2010年2月26日午後・東北芸術工科大学馬場正尊研究室 |
●Profile ●Art Projects ◯ドミトリー ◯カフェ 注1 竹内昌義(たけうちまさよし) 注2 博報堂(はくほうどう) 注3 A 注4 光琳社(こうりんしゃ) 注5 津村耕佑(つむらこうすけ) 注6 SANAA(Sejima And Nishizawa And Associates) 注7 磯崎新(いそざきあらた) 注8 東京R不動産(Real Tokyo Estate) 注9 R THE TRANSFORMER/都市をリサイクル 注10 山形R不動産リミテッド 注11 山形国際ドキュメンタリー映画祭(Yamagata International Documentary Film Festival) 注12 密買東京 注13 房総R不動産 注14 セミラティス構造(Semilattice) |
|
---|---|---|
|
||
宮本 | はじめに、馬場さんが東北芸術工科大学に着任することになった経緯をお話いただけますか。 | |
馬場 | ある日、『みかんぐみ』の竹内昌義さん(注1)から突然、「ちょっと芸工大に教えにこない?」と電話があったのですが、「大学で教えた経験はないし、心の準備ができていないから無理ですよ」という感じでした。山形はちょっと遠いイメージもあって、竹内さんは「大丈夫だよ、通えるよ」といっていたけど即答できないでいたのです。すると数日後に副学長の宮島達男さん(12頁参照)から電話があって「馬場さん、宮島達男って人から電話ですけど、それはあの〈宮島達男〉さんですかね?」って事務所のスタッフが騒然として。 それで宮島さんと直接いろいろ話をしたわけですが、僕自身は格別〈教育〉に興味なくて。早稲田大学を卒業してからサラリーマンを経験して、雑誌をつくって、設計事務所を立ち上げて― と在野でずっと活動してきましたから、「アカデミズムはちょっと遠いなぁ」と思っていました。建築に関する文章もたくさん書いていたけれど、論文的なテンションではなく人に読んでもらうためのものでしたし。そんな事を宮島さんに素直にいったら「逆にそのほうがいい。〈世の中に出て生きていく力〉みたいなものを学生たちに教えてくれ」と。だったら教えられる。それはそれで面白いかも知れないと思ったのです。 |
|
宮本 | 「在野で活動してきた」ということですが、建築家としての馬場さんのプロフィールを詳しくお話いただけませんか。 | |
馬場 | 僕は建築家としてはちょっと変わったキャリアを持っていて、大学で建築設計を学び、大学院で町づくりや都市計画を研究しました。ただ在学中からその世界のなかだけの言語で物事を捉えるとちょっと狭すぎる気がしていました。設計っていろいろな物事が動いた最後に、「じゃあデザインして下さい」と依頼されることのような気がしていて、物事が起こっていく〈川上〉側をきちんと経験してみたかった。 それで一度はぜんぜん違う世界も見てみようと、広告会社の博報堂(注2)に、なんの知識もなくポーンと飛び込みました。今となってはデザイン側からも物事が起こせると分ったのですが、当時はまだ若かったし、いつか建築畑に戻ってきたいと思いながらもメディアの仕事に否応なく関わっていったわけです。 会社では〈プランニング兼営業〉みたいなポジションで、例えば大きな博覧会だったら空いているブースの企画を考え、それに合った企業にプレゼンして、乗ってきたら他の企業を巻き込みながらプロジェクト化する、といった仕事をしていました。その現場で覚えたことは、スポンサーとか資本とかマーケティングを常に意識しながら、能動的に何か起こしていく手法とか泳ぎ方ですね。当時は「俺は何をやっているのか」と内心は沸々としたものがありましたが、いまとなってはその経験がすごく糧になっています。 その後、僕は雑誌の編集に携わります。何故かというと広告代理店にいたからこそ、テレビ局にしろ、雑誌出版社にしろ、「メディアを自分で持っているっていいなぁ」と羨ましかったのですね。しょせん代理店は代理店ですから。その雑誌はアルファベット一文字で『A』(注3)といって、もともとは大学院のときに早稲田の同期や後輩たちと一緒につくっていた同人誌です。書いたものをコピーしてパチンと束ねたくらいの簡易なものだったのですが、どんなに小さくてもメディアを持っていたくて仕事の合間に細々と続けていたのです。それである日、京都の出版社・光琳社(注4)の社長と知り合って、仕事の打ち合わせをした後に「ちょっと個人的な相談があるのですが」といって『A』を見せて、「建築とサブカルチャーをミックスして、身のまわりの文化を伝えるメディアをつくってみたい」とプレゼンしました。 今でこそ『Casa BRUTUS』とか『Pen』がありますが、その頃は建築の世界には専門誌しかなかったのです。そこで、「海外には『ウォールペーパー』とか、あるじゃないですか」と僕がいったら、「確かにそうだね。じゃあよく分からないけど50ページ分つくってきてよ」といわれたのです。それで雑誌を編集する知識もないまま友達をかき集めて、気がつけば編集長をやって、同人誌の『A』はフルカラーの季刊誌になっていました。そこで取材をしたり、文章を書いたり、写真を撮ったり選んだりという、一連の編集の作業を覚えていきました。 その頃の僕には建築がどうも閉じているような気がして仕方がなかったので、いかにしてそれを展開していくかという発想に自然になっていきました。博報堂のような広告代理店にいて、離れたところから建築とか都市計画を見ていたのですね。それで〈建築とファッション〉とか、〈建築と写真〉とか、毎号、建築に別のジャンルやカテゴリーをぶつけて読み解いていく作業をはじめました。 例えば、〈建築とファッション〉の特集では、『ファイナルホーム』の津村耕佑さん(注5)にインタヴューしました。津村さんの衣服を〈究極の家〉と捉えるコンセプトは最小限で柔らかい建築のようでもある。その両義性に惹かれたのです。また、「もっとも軽くて移動可能な建築とは?」を特集したときには陸上自衛隊にテントの取材に行ったりしました。とにかく僕らはまだ若くて、建築そのものをつくれるような年齢ではなかったので、〈建築〉と〈何か〉の間の曖昧模糊とした領域に論点をしぼって取材を重ねていきました。いま考えると、それは経験とか思考の筋トレだったですね。 |
|
宮本 | 当時の建築界のアカデミックな動向に興味はなかったのですか。 | |
馬場 | 90年代半ばは、竹内さんの『みかんぐみ』とか妹島和世さんの『SANAA』(注6)が活躍しはじめた頃で、みんなどこかで上の世代へのアンチテーゼとして建築を考えていました。そこには同時性があった気がします。磯崎新(注7)の「大文字の建築」という象徴的な言葉がありますが、これはものすごく乱暴な解釈をすると、「建築はハイ・アートである」ということですね。「社会に媚びるな」と。磯崎さんの世代は一九六八年以降の解体の時代で、建築が政治に巻き込まれて瓦解しそうになっていたところを「大文字の建築」という言葉で守ったのですが、それが長く続くことによってある種の殻ができてしまった。社会状況から切れた次元で安穏とハイ・アートの世界にすり替わっていったのです。 僕は社会まみれの広告代理店にいて、そこからそんなアカデミックな建築界を眺めていると、「これはアートだから」という態度を免罪符にして、好き勝手な形を無自覚につくるという姿勢が気持ち悪かった。たぶんそれは僕だけじゃなくて、竹内さんの世代も如実に感じていて、「ほんとうにちゃんと社会とコミットする建築とはどんなものだろう?」という問いを持ちはじめたような気がします。その匂いを僕はちょっと下の世代で嗅ぎながら、『A』を編集していたのですね。 |
|
|
||
宮本 | 雑誌『A』から『東京R不動産』(注8)への移行はどのように進んでいったのですか。 | |
馬場 | 『A』を編集しながら20代後半を過ごしていましたが、30代はメディアじゃなくて、実際に建築をつくるとか空間をつくることで社会にコミットをしたいと思っていました。何からはじめようかと思っているときに、ちょうど〈都市の再生〉とか、〈古い建物のリノベーション〉という考え方に出会いました。きっかけは、外資系の銀行に勤めていた友人から、「バブル崩壊後の建物を安く買って転売しようとしているけどなかなか売れない。デザインでもしてバリューアップできないかな?」という相談を受けたことです。銀行はバブルがはじけて不良債権化したビルを買っていたらしいのですが、建物が余りテナントのストックが増えていた。いろいろと相談にのっている過程でこれは経済の根幹に近いころと密接な関係がある話だと気付いて、「これは面白い。今後ニーズがありそうだから僕はここから行こう」と思ったのが2002年くらいだったと思います。 でも最初は何をやったらいいのか分りませんでした。ただし、それは単純にインテリアやデザインの仕事ではないと考えていました。最終的にデザインで解決するのが僕ら建築家の仕事だと思いますが、〈大文字〉気分の仕事だと、社会的な状況からデザインに辿り着くまでの距離が長いと思ったのです。「俺たちが必要なのはデザインだけだから」というようなスタンスを取り続ける限り、リアルな社会状況や経済のシステムとはつながらないし、当時はつなげる奴もいなかった。 そこで事例がたくさんあるアメリカに取材に行き、疲弊した都市や建物を再生する方法を学びました。僕は幸い、ファイン・アーキテクチャーの世界にいなくて、編集者として領域を飛び越えて活動していたので、怖がらずにズガーッと外に出て行くことが軽くできたのですね。それで、『R THE TRANSFORMER /都市をリサイクル』(注9)という本を書き、それが企画書のように歩いていったお陰で、一気に、「いっそ〈不動産〉といってやれ」という勢いがついて『東京R不動産』という実践モードに切り替わったのです。 |
|
宮本 | 「デザインと社会の距離が遠い」というのは、『東京R不動産』の手法がすでに社会的に認知されている現在でも感じていることですか。 | |
馬場 | ここ10年で両者はすごく近くなりましたね。当時も今も、あらゆるものに〈デザイン〉はあるけれども、アカデミックな意味での建築と、不動産や経済といったギトギトした社会との距離感は時代の雰囲気として確かにあって、その部分にあまり近寄っちゃいけないと思っていた建築家は多かったでしょうね。だから僕は逆に近寄ってやれと思った。高楊枝で偉そうに下界を眺めているより、そこにダイブして暴れたほうがアバンギャルドじゃないかと思ったのですね。 | |
宮本 | 『東京R不動産』を立ち上げたとき、周囲の反応はどのようなものだったのでしょう。 | |
馬場 | おそらく「また馬場が変なことをはじめたな」という反応だったと思いますが、僕のなかでは『A』のときよりもさらに建築と社会がリアルにつながった、というよりバージョンアップしたという感じでした。『A』は雑誌でしたが、『東京R不動産』は二面性があって、その一面は空き物件を通して東京という都市を眺める考現学的なメディア。最初はそうやってはじまったのですよ。不動産の仲介なんて考えてなくて、空き物件から東京を語るブログのような存在だったのですね。 だけどそれに「これすごくいい、貸せませんか?」とか「この物件、借りられないの?」という反響が結構あったので、やはりニーズがあることが分って、それで数人の友達と、「ちゃんと借りられるものをつくろう」と現在の『東京R不動産』のスタイルに発展していったのです。そこでメディアとは別の顔、つまりもう一つの面、〈流通〉が加えられ、実際にお金が動く行為が伴うようになってきます。 『東京R不動産』は不動産と建築を組み合わせて、都市を動かすためのエンジンのようなものですね。メディア性と道具性の両面がある。それが2つ組み合わさったことによって、『A』をつくっていた頃とはちょっと違う質感というか、ダイナミズムが生まれてきました。 |
|
|
||
宮本 | 『東京R不動産』の共同運営者たちは、どのように集められたのですか。 | |
馬場 | はじめたのは有志5人です。これは『A』の編集部とは違います。まず僕は建築設計とメディアに関わる。そして吉里裕也という建築学科出身でディベロッパーに勤めていて、ちょうど勤め先を辞めようとしていたので誘いました。あと林厚見。彼は建築出身ですが、マッキンゼー・アンド・カンパニーでコンサルタントをやっていた頭のいい奴。そして安田洋平というアート系のライターと、最後は三箇山泰といって、彼は大学生の時に『A』の編集部にバイトできていたのですが、肝心の物件を探すために街を走り回れる人間が必要だということで、カフェでアルバイトしているところを偶然発見して捕獲しました(笑)。そういう5人で『東京R不動産』をはじめています。最初は上手くいく確信は全然なかったのですが。 | |
宮本 | 単なるメディアとは違うビジネスモデルとして踏み込んでいけたのは、メンバー5人のキャラクターも作用していたということですか。 | |
馬場 | 誰が抜けても成立しなかったでしょうね。まずメディアつくった経験がある僕がいないと成立しないし、不動産の仕組みが理解できていないと法律的なものがクリアできない。そこにビジネスとして組み立てる人、純粋に編集する人、物件を探す人などが加わることで、今までにない建築の領域を拡げられるチームになったのだと思います。 あと、僕は個人事務所『Open-A』も抱えていたので、設計の仕事に緩やかにシフトしていこうと思っていました。ちょこちょこと内装の仕事をさばいているうちに、『東京R不動産』が元気になってきたので、うちの設計事務所が古い建物をリノベーションして、それを『東京R不動産』が貸すといった上手いサイクルができあがってくれた。今では『東京R不動産』と建築家・馬場正尊のリノベーション設計は並走している状態ですね。 |
|
宮本 | メディアと建築設計がいいバランスで動きはじめたところに、〈大学の教員〉というさらにもうひとつの顔が増えたわけですね。 | |
馬場 | 着任当初はそんなに意識的ではなかったのですが、行ってみたら宮島さんも竹内さんも、「当然、こっちで山形でも〈R不動産〉やるよね」みたいな空気でいっぱいで(笑)。その年の10月にはもう『山形R不動産リミテッド』(注10)がはじまっていました。 | |
宮本 | 『東京R不動産』では専門家がきちんと役割を分担していますが、大学では自分以外に能動的に動いてくれる人はいないわけですよね。システムを教育現場にはめ込むのは難しかったのではないですか。 | |
馬場 | それが不気味なくらいに違和感がなくて。僕は雑誌をつくったときも素人でしたからね。まともな編集のスキルもないのに、カメラマンやライターを口説いてつくっていましたし、『東京R不動産』も、不動産仲介の経験はなかったけれどプロジェクトチームをつくって手探りで動かしはじめましたから。『山形R不動産リミテッド』もそれらと同じで、〈大学〉というある種の状況に対して柔軟につくっていくしかないという気持ちでした。イメージ通りになんてできるわけがないと思っていた。学生たちの力量も分らないし、最初から〈教える〉という意識はあまりなく、彼らをそこにある〈素材であり状況である〉と考えて、それを使ってできる『山形R不動産』をつくろうと思っていました。 | |
宮本 | 学生が素材であり状況であり、というのは面白いですね。 | |
馬場 | そう捉えざるをえない状況ですよ(笑)。まずは授業で『東京R不動産』の話をして様子を見ていると、みんな楽しそうに聞いているので、これは大丈夫じゃないかと思って、「とりあえず物件を探してこよう」と少しずつ盛り上げながら進めていきました。そのときに思ったのが、大きくなくてもいいからリアルなゴールイメージをきっちり示してあげれば、勘のいい学生ならちゃんとやりきるものだということです。あれこれ考えるよりもとりあえず動いてもらって、「君たちがやってきたことは何なのか」とか、「それが時代における意味は何なのか」とその過程で説明をしたり伝えていく教育スタイルですね。大文字の建築のことばかりで過剰に頭でっかちにならないで、自分たちで結果を出すなかでちょっとずつ自信をつけていく。〈語るよりも動く〉というスタイルがこの大学の学生には合っていると、やりながら思いましたね。 | |
|
||
宮本 | 『東京R不動産』のメンバーは山形の展開をどう見ているのですか。 | |
馬場 | 地域社会にとってはすごく有意義だと見てくれていると思いますが、その反面、「これじゃあ稼げないから大変だろうなぁ」とも感じているはずですね。でも確立されはじめた『R不動産』フォーマットからちょっとくらいはみ出た存在があっても、それはそれで『R不動産』らしいと思ってくれているのではないでしょいうか。 本体の『東京R不動産』から見ると、不動産仲介をしないのはまったく違うプロジェクトになるのですね。『山形R不動産リミテッド』は物件の情報を開示して興味がある人がいたら設計をするという、情報、設計、デザイン、企画だけ。『R不動産』の特徴でもあるダイナミックな道具性はちょっと薄いですね。その分、メディア性が強いというか。ただ僕は『山形R不動産リミテッド』も続けていけば、おそらく段階的に地元の不動産屋と提携しながらちゃんとした流通につながっていくと思います。今はそこに至るための助走期間なのですね。 |
|
宮本 | 『ミサワクラス』(三沢旅館)のリノベーションは『山形R不動産リミテッド』の最初のキーモデルになりましたね。 | |
馬場 | 『東京R不動産』は、東京のなかに眠った魅力的な物件を発見して顕在化するサイトですが、山形の場合は空き物件が多すぎて顕在化も何もない状況だったのですね。そこでまず決めたのが『山形R不動産リミテッド』の対象は街の中心だと。山形市の中心市街地ですら空いた物件があるのなら、それを〈発見する〉ことよりも、「このように活用しようぜ」と積極的に提案するサイトにしようと舵をパッと切り替えました。 それでいくつかの物件をモデルケースに、リノベーションの提案を具体的にはじめていったら、さっそく商店街の会合に呼ばれました。そこで実際に中心街にある空き物件のビフォー・アフターをCGで見せたら、そのなかに三沢旅館が混ざっていたのですね。商店街の会長さんが「あれ、これ三沢さんのビルじゃないか。紹介してあげるよ」と。オーナーの三沢さんは「何かわけの分からない奴らが来たな」くらいの感じでしたが、少しずつ説得していったら乗り気になってくれて、最終的に旅館だった建物の特徴を活かした最小限のリノベーションプランを、最小限の投資で可能にするシェアアパートのプログラムで話がまとまりました。ビル全体の投資を回収するための収支計画を地元の銀行にも入ってもらって組んでいけば、山形でもちゃんと成り立つと思いましたね。 |
|
宮本 | 空き物件の情報だけじゃなくて投資額の提案まで踏み込んでやらないと、山形では『R不動産』としてのメディア性が出せないと。 | |
馬場 | 出せないし何も動けない。空き物件がたくさんあるのはみんな知っている話なので、それをどうするかというところまでないと街は永遠に空き物件をストックしたままですね。だから具体的な提案をしなくちゃいけないのだけど、紙上のプランニングだけでは駄目だと思っていました。リアルな何かが動かなきゃいけない。 他の『東京R不動産』の仕事で、もともと独身寮だった建物をシェアハウスに改装したことがあったので、七日町で三沢旅館を見たとき同じやり方でいけるとすぐ思いました。僕にとっては、完成度が高くなくても、とりあえず一つ、「何かが動いている」という事実が重要だったので、まずはシェアアパートとして着地させる事に注力したのですが、そこが〈大学〉の面白さですよね。三沢旅館に暮らしはじめた学生や卒業生たちがプロジェクトチーム『ミサワクラス』をいつの間にかつくり、「俺たちで街を動かそう」と能動的に思いはじめたのです。 投資額が小さかったため改修工事はほとんど水まわりのインフラのみで、あとは学生たちの手づくりですから、建物としてはたいしてデザインは入っていないのです。空間的には予定の範囲内のリノベーションに収まっていますが、『ミサワクラス』が共同生活の場をシェアするとともに一緒にプロジェクトを動かすコミュニティになっていったことを、僕はかなりアプリオリに受けとめています。そのことが三沢旅館という物件を、僕の想像以上にクリエイティブなアートのほうに振れてくれた。いちばん大きかったのは他ならぬ宮本さんがキュレーターとしてコミットしてくれたことですけどね。 |
|
|
||
宮本 | 三沢旅館に住んだ『ミサワクラス』のメンバーが、次に隣の空きビルに侵食して、山形国際ドキュメンタリー映画祭(注11)のための仮設ドミトリー『アジアハウス』のプロジェクトをはじめましたね。 | |
馬場 | メンバーが建築系だけだとこうなってないですよ、絶対。なぜかというと、建築家は図面を描いて指示を出すという職能性が強い。でもアート系の人は「自分でつくらなければ駄目だ」と、そこに物や空間があったらすぐに手を動かしはじめる。『ミサワクラス』が堅実なのにスピード感があるのは、そこに建築のマスタープランのような感覚が上手く重なっているからですね。 東京とかの建築学生のプロジェクトだと、計画が先走ってなかなか現実に着地しないのですが、『アジアハウス』を見ていると、計画と同時に着地が語られはじめ、行われていくという実践性がすごく新鮮でした。そのつながり方、つなげ方が興味深かったですね。あるプロジェクトが次のプロジェクトを生む。しかも隣で。 そもそも『R不動産』という集団は、『東京R不動産』を空母にしながら『密買東京』(注12)があったり『房総R不動産』(注13)あったりと、新しいプロジェクトがそこからぴょんぴょんと飛び出す性質を持っているのです。だからある活動が母体となってスピンオフしていく構造は常に想定しているのですが、山形の場合はもっと不思議な、スピンオフでもない進化ですね。リノベーション物件の住人たちが自らあたらしいプロジェクトを考え、次のビルのジャックに関わっていくなんて完全に想定外だし、びっくりしました。 |
|
|
||
宮本 | これまでの展開を踏まえて、今後の『山形R不動産リミテッド』は中心市街地でどのように動いていくのですか。 | |
馬場 | 水平展開する感じになっていけばいいと思っています。20世紀の建築は、特に都市では垂直的に伸びていく欲望が強かったのですが、奇しくもこの時代はその運動性への疑いが生まれていますよね。特に地方都市の場合は疑いどころか、そんな単純な発展モデルはもう存在しないことははっきりしている。 僕は建築家としての大きなテーマとして、都市がどのように更新されたり読み変えられたりするべきかを考えてきたのですが、山形での『ミサワクラス』や『アジアハウス』の動きを見ていると、密度が薄くなっていた地方都市に一つの事例ができ、それが次の事例を生み、その次の事例がまた次の事例を生むという、セミラティス構造(注14)にプロジェクトがズレながら広がっていって、しかもその生まれたプロジェクト同士はつながっていくわけですね。現在も花小路であたらしいシェアアパートのリノベーションが進んでいます。 20世紀の都市計画はいわゆるマスタープラン型で、決まった方向に物事をまっすぐ進めていくのですが、この一連の動きは偶然が偶然を生み、またその偶然が偶然を生み、大きく見るとそれが必然だったように見えて、帰納的ではなく演繹的に広がっていく展開の仕方だと思うのですね。それらはプロジェクトとしての親和性も高く、山形の場合は人的なつながりがある場合も多いので有機的にパッと接続しやすい。「この通りがこのように変わりました」という昔っぽい変化ではなくて、違うレイヤーでジワッと物事が動いていくような変化の仕方がありえる。それはまだ言語化されていないけれども、水平的にポツポツと展開していたものが、あるとき急にパパパパと重なっていく感覚は、大袈裟な話かも知れませんが、新しい都市計画の方法論の可能性を示しているようにすら、僕には思えるのです。 |