先延ばしの功罪
忙しい季節である。
後期の授業が始まって、そこに学会のシーズンも重なっているからだ。
この1ヶ月、学会での研究発表の準備に追われていた。もっと早くから準備しておけば、直前になって慌てたり徹夜したりしなくて済むのに…。ごもっとも。しかし、どうにもそれができないのだ。切羽詰まらないと力が出ないのだ。先延ばしをしない人生を歩みたい。
先延ばし。英語では “procrastination” という言葉がそれを表す。なーんだ、英語圏の人のあいだにも先延ばしという言葉があるということは、先延ばしは世界共通の行為なのだ!と妙な安心感に浸ったりもした。しかし、それは一時の慰めでしかなかった。
とにかくこのひと月のあいだ、学会で研究発表をするために、胃が痛くなりながら準備を重ねた。そして先週、いざ北海道へわたしは飛んだ。
大志と夢とレコードと
なんとも広いキャンパスだ。
無事に学会で発表を終えて、ホッと一息、北海道大学を散策した。
キャンパスのあちらこちらに、クラーク博士の精神がいまも息づいているのを感じる。
「大志を抱いて、か」
岩に刻まれた文字。それを誰にも聞こえない声で読んでみたときだった。
「大志トハ何カ、アナタニワカリマシテ?」と声をかけられた。
日本人ではないと思われる女性だった。
「大志、ココロザシ、まあ、夢みたいなものですかね」
こちらまでカタコトの日本語になりかけて、この女性は「大志」の意味を尋ねていたのか、それとも、自分が「大志」とか「夢」を抱いている人間かどうかを知りたかったのか、不安になった。
こちらの不安をよそに、その女性はもはや昔からの知り合いのような態度で話を続けた。
「夢???。Can you tell a dream from a dreamer?」
話の核心になると日本語ではなくなるのだな、と感心した。そして、あながち最初に述べた答えは間違いではなかったかもしれない、と安心した。
「夢」と「夢見る人」の区別がつくか、と女は尋ねた。これが言葉遊びなのか哲学なのか、表情で判断しようにも、女のサングラスがそれを遮った。
「夢(a dream)はこうなったらいいなという希望で、夢見る人(a dreamer)はその夢を見る行為者ということですよね」
当たり障りのない回答でこの場をやり過ごそうと思った。
「夢ハ、夢を見る人がいないと存在さえしないノデス」
「なるほど、それはそうですねえ…」
「ワタシハ文学トカ思想ヲ研究をしている者デス。アナタも今日の学会に参加シタデスネ」
ああ、この人は、学会の合間に暇を持て余した学者さんだったのだ。そうわかるとホッとした。安堵感はこの女との距離を縮めた。そして誘われるまま「夢と大志」談義のつづきをしに、キャンパスの近くにある、昼間も開いているバーに行くことになった。どうせ、他にやることもないのだし…。
1パイントの黒ビールを2つ頼み、さっき出会ったばかりとは思えぬ盛り上がりで会話を楽しんだ。しばらくして、女が店の棚から1枚のレコードを出すようにと、バーのマスターに指示した。
「ワタシ、ココの常連デス。お気に入りのレコードを置かせてもらってるノデス」
そう言いながら、出てきたレコードを手際よくカウンターの隅に置かれたプレイヤーにのせた。すると、繊細かつ重厚なピアノ、そして、か細い男の声が流れてきた。
そのレコードはイギリスの名キーボーディスト、ニッキー?ホプキンスの珍しいオランダ盤シングル。B面のThe Dreamerはこんな歌だった。
Lord, it’s awful. Jeez, it’s lonely. Just hangin’ around
神様 あまりにひどい ああ、なんという孤独 ぶらつくだけの日々
I have always been a dreamer
ボクはずっと夢見るだけだった
Thinking of you. But what can I do?
あなたを想って けれど なにができるというのか
「いい夢もあれば、つらい夢もあるってことだね」
と感想を述べようと思ったが、言葉を飲み込んだ。曲の最中にしゃべるのは無粋だ。曲は続いた。
I had nothing. You had nothing
ボクには何もなかった あなたも同じ
But we had a dance. Such a dance
けれど2人でダンスをした なんて素敵なダンス
Since I’ve always been a dreamer
ボクはいつでもずっと夢見る人だから
I took a chance
きっかけはあったのに
Then I watched you dance away
あなたがどこかへ行ってしまうのを見届けてしまった
「フラれちゃって悲しい夢を見る人だ」
「ケド、夢を見る才能は持ってマスネ」
そういうことだ。叶わぬ夢だとしても、夢は夢。夢をこの世に生み出しただけでも、十分に素晴らしい能力なのだ。キャンパス中にあふれる大志の文字に辟易しそうになっていた自分を少し恥じた。いまや夢を見ることさえ困難な世の中だ。だから、夢を見るのは才能だ…。そうだ、夢が必要だ、志がなくては。Boys, be ambitious… ああ、酔いが回ってきた。
ふと気がつくと、隣にいた女はもういなかった。黒ビールのジョッキも片づけられていた。どうやらわずかな間だけ眠っていたらしい。今までのことはすべて夢だったのか、とすこし混乱した。
「これはあの方があなたに、とのことです」
バーのマスターがそう言って、ジャケットに収まったニッキー?ホプキンスのレコードを手渡してくれた。あの楽しかった会話は夢ではなかった。けれど、もうあの女性に直接お礼も言えないし、名前も聞かないままお別れしてしまった、と後悔した。だが、マスターが、彼女の名前はドリー(Dolly)です、オランダから来た哲学の教授ですよ、と教えてくれた。
なんともせわしない出張だった。それでも、Dollyのおかげで素敵な札幌みやげができた。
旅の合間に
帰りの道中、どうにも眼が冴えわたって暇すぎたために、物語を書いてみました。そう、お読みいただいたものは、ほぼフィクション。本当なのは、札幌開催の学会で研究発表をしてきたこと、北海道大学のキャンパスを散歩したこと、登場したレコードがオランダ盤であること、ニッキー?ホプキンスの最初の奥さんの名前がDollyということだけです。
それではまた。次の1曲までごきげんよう。
Love and Mercy
(文?写真:亀山博之)
BACK NUMBER:
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第2回 バス停と最新恋愛事情~ザ?ホリーズの巻
第3回 孤独と神と五月病~ギルバート?オサリバンの巻
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第5回 スィート?マリィは不滅の友~フレイミン?グルーヴィーズの巻
第6回 ツンデレな愛をかんがえる~ザ?ビートルズの巻
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亀山博之(かめやま?ひろゆき)
1979年山形県生まれ。東北大学国際文化研究科博士課程後期単位取得満期退学。修士(国際文化)。専門は英語教育、19世紀アメリカ文学およびアメリカ文学思想史。
著書に『Companion to English Communication』(2021年)ほか、論文に「エマソンとヒッピーとの共振点―反権威主義と信仰」『ヒッピー世代の先覚者たち』(中山悟視編、2019年)、「『自然』と『人間』へのエマソンの対位法的視点についての考察」(2023年)など。日本ソロー学会第1回新人賞受賞(2021年)。
趣味はピアノ、ジョギング、レコード収集。尊敬する人はJ.S.バッハ。
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