渡邉亮|松が岬公園の土地利用の変遷 -顕彰するものと消失するもの-
山形県出身
北野博司ゼミ
山形県米沢市に所在する松が岬公園は、明治初期まで米沢城であった城跡に立地している(図1)。明治6年に旧米沢藩士が公園化の稟申を行ったことは明らかだが、地域住民の実態が不明である。そこで本研究では、米沢市の松が岬公園の変遷を調査し、市民と城址公園の関わりを明らかにする。また、松が岬公園の歴史を解明することで、城跡の歴史の新たな価値考察の一助としたい。
研究対象を米沢市の松が岬公園が所在する米沢城旧本丸とする。また、松が岬公園の変遷において旧二の丸が一部関係することが明らかになったため、旧二の丸も対象とする。研究方法としては、市立米沢図書館所蔵の林泉文庫『松岬公園記』を読解し、史料の確認と収集を行った。
『松岬公園記』を読解した結果、旧米沢藩士が免官された後、明治7年に2度の「公園地之願」が申請されていることがわかった。2つの申請内容に多少の違いはあったが、米沢城旧本丸に公園設立を願う住民の意志が確認できた。
大正8年には米沢市街中央部に広がる大火が発生し、松が岬公園と同時に米沢城旧本丸に位置した上杉神社が焼失した。これによって上杉神社再建が行われ、公園の賑わいに対する不満や境内の狭さに不満があったことから、神社境内が拡張された。この再建時の建物が現在残っている(図2)。
明治6年の公園化の稟申以降も住民の代表である、区長?戸長から公園化申請が出されていたことが確認できた。米沢城跡の土地利用として松が岬公園が開設され、明治期は賑わいを見せるが、大正8年の米沢大火によって焼失した上杉神社の再建によって、松が岬公園は縮小を余儀なくされた。旧二の丸は上杉神社から通じる直線道路「県社通り」によって開発が進むなど上杉神社を中心に発展した様子が窺える。しかし、旧本丸は米沢城跡や明治期の松が岬公園の記憶が残っておらず、城跡の保存活用を考えると今後の土地利用をどうするべきか考える必要があるだろう。