「空気」を読む日本人-コロナ禍における「空気」-
関千秋
秋田県出身
松田俊介ゼミ
目 次 はじめに/概要/文献調査/コロナ禍における「空気」の新聞?Web調査/考察/終わりに/参考文献?Webサイト
日本人なら誰もが当たり前に行っている「空気を読む」という行為における日本社会の「空気」は、昨今の任你博の蔓延によって明確に現れたように感じる。コロナ禍以前にも様々な形の「空気」は存在していたが、日本人や日本社会はそれらの「空気」を曖昧にしたまま生活してきた。それらがコロナ禍により一気に炙り出されたことを機に、日本社会の「空気」について改めて研究する必要があるのではないかと考えた。
本研究は、現代の日本人がなぜ「空気」を読むのか、コロナ禍における「空気」について、新聞記事の調査や先行研究、文献などを用いて検討したものである。
文献調査や新聞調査を経て、筆者が考える「空気を読む」について定義する。日本社会における「空気を読む」という行為は、「明文化されていない不可視のマナーを守ること」であると言えるだろう。マナーとは、礼儀作法を意味する言葉だ。テーブルマナーや冠婚葬祭の服装規定などは、ある程度明文化されたマナーだと言えるだろう。しかし、世間や同調圧力など、私たちの身近には目に見えない事柄が多く存在する。目に見えないからこそ、人々はそこから様々なことを読み取ろうとし、時にはそれが圧力に感じ、息苦しくなってしまう。そして、マナーを破ると、世間や人々から、排除される対象となってしまう。そうならないために、人々は「空気」を読んで行動しているのではないだろうか。空気を読むという行為は、時と場合によって、良い面?悪い面の両方が存在する。よって、一概に「皆が空気を読んで行動すべきだ」とは言えない。そこで、皆が今よりも「空気」の存在を意識して、「空気」とうまく付き合っていくことが重要ではないだろうか。コロナ禍の日本人の行動を学びとし、今後の教育でも取り入れていくべきである。私たちは普段、周りの目を気にしながら生活しているが、周りからどう見られているのか、外から見た日本人についてあまり理解していないように感じる。そこで、小?中学校での教育に、日本人の性質や空気の歴史などを知る機会を設けるべきではないだろうか。幼いころの学びは、その後の成長にも大きく影響する。また、今後グローバル化や多様化が進むにつれ、今のままでは成り立たないことも出てくるだろう。「曖昧」なままの部分もあってもいいが、明文化すべき点は明文化していった方が、将来的には良いのではないだろうか。