縄文貝塚の貝種組成と遺跡立地の関連性 -東京湾域の縄文時代のオキアサリを中心に-
田仲莉沙
千葉県出身
青野友哉 ゼミ
目 次 研究の目的/本論での分析/結論
千葉県では、縄文時代中期から後期の貝塚になると、オキアサリという貝が出土する。特に、千葉市にある園生貝塚の貝種組成を見ると、縄文中期から縄文後期にかけて遺跡立地は変化していないにもかかわらず、オキアサリの比率が高くなっていくという傾向がある。しかし、そのことの言及自体はされているが、何が理由なのかは解明されていない。そこで、このオキアサリの増加がどのような理由で起こったのか、周辺の遺跡では同じことが起きているのか、遺跡立地との関連性はあるのか、について調査する。また、古作貝塚の調査報告書に貝塚のオキアサリについての言及がある。それらにについて検証を行った。
分析対象とした貝塚の発掘調査報告書から貝種組成表を集成し、分析を行った結果、東京湾域のオキアサリは縄文後期前半の堀之内Ⅰ式期に増加すること、オキアサリはハマグリと連動して増減する特徴があること、オキアサリの増加には多少の地域差がみられることが分かった。
分析結果を受けて、東京湾域ではオキアサリがなぜ縄文後期前半の堀之内Ⅰ式期に増加するのかについて考察した。まず、東京湾域に多い理由としてオキアサリの生息域があげられる。オキアサリは、ハマグリやアサリよりも細かい砂の砂底を好むとされ、その環境に当てはまる。このように生息地的な理由からオキアサリの出土量が多く、他の地域からオキアサリの出土量が少ないのは近くに生息域がないためである。次に、寒冷化にともなう海退によりオキアサリの採取が容易になったことがあげられる。アサリよりも深いところに生息する性質を持つオキアサリは、前期のように海面が上昇して水深が深くなっている際に、日常的に採りに行く距離ではなかった。そのため、縄文前期から中期前半では、オキアサリ自体が、東京湾に生息していても、当時の人間が利用しづらい環境にあったと思われる。そして、今回対象とした遺跡の中で園生貝塚はオキアサリの比率が他に比べてかなり高かったが、これはオキアサリの流通の中心地点であったと考えた。千葉県では内陸の印旛沼地域と八木原貝塚を経由して海産性の貝を流通していたとされている八木原貝塚という例があるが、この八木原貝塚が貝の流通の中心になっていたとされる根拠と園生貝塚の状況が各自している。そのことから園生貝塚はオキアサリの流通の中心遺跡でであったためにオキアサリの出土量が増えたと考えた。